いつも音楽といっしょ

音楽といっしょに成長した自分を振り返ります。

◆いつも音楽といっしょ<ニフェーディービル ウチナー>(m090)

■詩集『ニフェーディービル ウチナー』の作成(社会人編 1 of 12)

 

♪東京出向と沖縄恋し

・沖縄の企業に就職したのですが、二年目から「武者修行」と称して、東京の企業に出向となりました。東京の進んだ技術は素晴らしく、それらを吸収すべく、当初は一心不乱に仕事に打ち込んでおりました。

 

・しかし、一年目が過ぎた頃から「沖縄が恋しい」と思う気持ちが強くなり、チャンスを作っては、年に四~五回は沖縄に帰っておりました。夏休みはもちろん、本社への定期連絡会、沖縄の友達の結婚式等々です。

 

♪沖縄帰りは、二つの楽しみ

・沖縄帰りには、友達に会う事と離島巡りの二つの楽しみがありました。与那国島波照間島石垣島宮古島、本島周辺の離島など、主な離島はすべて行きました。離島の旅は、沖縄本島とは違った離島独特の魅力を発見する旅でもありました。

 

・離島生まれの島唄もたくさんあり、関連した場所などを尋ねる歩くのも楽しみの一つでした。伊江島の「砂持節(すなむちぶし)」では、泊まった民宿のおばさんが三線同好会の集まりに連れていってくれて、生で「砂持節」を聞かせてもらいました。

 

♪詩集『ニフェーディービル ウチナー』の作成

・そのうち、この「沖縄が恋しい」という思いを、詩に書くようになり、それらをまとめて『ニフェーディービル ウチナー』という詩集を作りました。『ニフェーディービル ウチナー』とは、沖縄方言で「ありがとう 沖縄」の意味です。

 

・私の曲がりくねった人生で困難にブチ当たった時に、私を助けてくれたのは「音楽」と「沖縄」だったと、思っております。そこで、沖縄の「人」「自然」「音楽」へ感謝したいという思いを込めた34編の詩が『ニフェーディービル ウチナー』として、詩集にまとめ上げられたのです。手作りの詩集20冊は、家族、親戚、友人等配り、感想などを聞かせてもらいました。

 

■詩集『ニフェーディービル ウチナー』
・メニューの「詩集」をクリックしてください。

  url = http://www7a.biglobe.ne.jp/~oka_tms/

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・沖縄の海と空。海の上を走る大きな雲たちです。


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・ニフェーデービル ウチナー(ありがとう沖縄)(4分15秒)
・沖縄の「自然」「人」「音楽」への感謝の歌です。ニフェーデービル ウチナー=ありがとう沖縄、ナチカサン=悲しいくらい懐かしい。
・作詞・作曲:南風まさひこ 

◆いつも音楽といっしょ<ほのかな光の中に>(m089)

■『ほのかな光の中に』(中村透先生作曲)(大学生編 5 of 5)

 

♪「卒業おめでとう」と書かれたカセットテープ

・大学の卒業をひかえた頃、中村透先生から「卒業おめでとう」と書かれたカセットテープをいただきました。テープの1曲目は、作曲の講義で課題として作曲した変奏曲、2曲目は、中村先生作曲及びピアノ演奏の『ほのかな光の中に』でした。

 

・テープの1曲目は、私が作曲した「ピアノとフルートのための眠りの精の主題による9つの変奏曲」で、ピアノは、同級生の女の子、フルートは、ありがたいことに沖縄交響楽団のフルート奏者だった方が、演奏してくださいました。

 

・しかし、演奏及び録音された教室に、私はいませんでした。私は、母の急死の後、体調を崩し、休学していたのです。ですから、復学後にこのテープを渡された時には、驚きと共に中村先生に深く感謝いたしました。

 

♪『ほのかな光の中に』のイメージ

・『ほのかな光の中に』を聞いた私は「心から楽しい事があった夕暮れ、その余韻にひたる」というイメージが、心に浮かびました。曲は静かに始まり、いろいろな作曲技法を使い、曲を盛り上げていきます。しかし、甘ったるい気分に終止しない中間部があり、最後にまたあの心安まるメロディーが、戻ってきます。

 

・「さすが!中村先生という素晴らしい曲」です。私の拙い変奏曲の後に『ほのかな光の中に』が聞こえてきた時には、何かホッとした気持ちになるとともに、改めて中村先生のやさしさに 触れた気がしました。

 

♪「音楽と人生」を教えてくださった中村先生

・中村先生には「音楽理論」や「作曲技法」だけでなく「音楽と人生」という事を教えていただいたと、思っております。更に、私がいつも迷っていた「音楽と自分の立ち位置」についても、方向性を示していただいたと、感謝しております。
 
・中村透先生の公式ホームページでは、中村先生の経歴・キャリア・作品・受賞歴等が紹介されています。是非。お立ち寄りください。
 url =  http://torunakamusic.com/

 

◆残念ながら『ほのかな光の中に』のクリアーな音源がなく、今回お聞かせできません。クリアーな音源が入手できましたら、是非聞いていただきたいと切に願っております。

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・大学の卒業の時、中村透先生からいただいた懐かしいカセット・テープです。


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・沖縄民謡 ベーベーぬ草(3分42秒)
・中村先生のピアノ編曲版です。曲の素朴さと子供の頃の幻想を感じる素晴らしい編曲です。
・編曲:中村透

◆いつも音楽といっしょ<四つの沖縄の歌>(m088)

■中村先生の作曲の授業(大学生編 4 of 5)

 

琉球大学教育学部音楽科の講師として、中村透先生は沖縄にいらっしゃいました

・中村透先生は、国立(くにたち)音楽大学作曲科を卒業され、琉球大学教育学部音楽科の講師として、沖縄にいらっしゃいました。沖縄に来てからは、沖縄の音楽に触発されて、素晴らしい作品を数多く作曲されております。

 

・オペラ「キジムナー時を翔ける 」は「文化庁優秀舞台創作奨励特別賞」を受賞した名作です。また先日は「第二回宮良長包賞」も受賞されました。宮良長包は「えんどうの花」「なんた浜」「汗水節」などを作曲した、沖縄を代表する作曲家です。

 

♪胸をワクワクさせて受講した中村先生の講義

・大学での中村先生の講義は、アイデアや工夫にあふれている上に、とても実践的なもので、私はいつも胸をワクワクさせて受講しておりました。たとえば、作曲の授業では、グループ分けした生徒にメロディーだけの譜面が渡されます。それをグループで編曲して、そこら辺にある楽器で演奏するというものでした。

 

・「茶色の小びん」「アメリカンパトロール」「エーデルワイス」、「ホルディリ ホルディア」等、工夫に工夫をこらして、思いっきり遊ぶという感覚で、最高におもしろ授業でした。しかし、これらの曲は「トゥー・ファイブ」「四度進行」等の課題を学ぶ為に準備されたもので、私達は編曲を通して、その曲の課題を耳で学ぶというしくみでした。

 

・生徒は20歳前後、中村先生も30歳を過ぎたばかりのバリバリの頃だったので、どの講義もとても張り切っていらっしゃいました。先生は講義の中で、ポーランド民謡「森へ行きましょう」の歌詞「森へ行きましょう 娘さん~」を「とてもスケベな歌詞だな~」と、言って笑わせてくださったりもしました。

 

♪先生は「音楽は続けろよ」と、言ってくださいました

・大学卒業後も中村先生には、本当にお世話になりました。私の作詩・作曲した曲がビクターからCD発売され、印税というものをもらう経験をさせていただいたのも、先生のお蔭です。

 

・この間、久しぶりに中村先生を囲んで、あの当時の仲間が集まりました。先生は私に「音楽は続けろよ」と、言ってくださいました。私は、いろいろな形で音楽を続けていましたが、自分の才能の無さに、投げ出したくなる事がよくありました。それを知っている先生は「音楽は生きるパワーをくれる」から「音楽を友として生きてゆけ」と、言ってくださったのだと思っております。

 

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・中村透先生企画のアルバム。私の作詞・作曲の「跳べ!きじむなあ」も、入れていたきました。


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・四つの沖縄の歌(4分41秒)
・「子守歌(八重山民謡)」「遊び歌(沖縄本島の子ども歌)」「別れの歌(宮古島民謡)」「舞の歌(沖縄民謡)」の四曲。中村先生作曲、素朴ながら不思議な響きのする女性合唱です。
・作曲:中村透

◆いつも音楽といっしょ<バッハのフランス組曲>(m087)

■ピアノの試験(大学生編 3 of 5)

 

♪「ピアノの試験」でバッハを弾く

・「ピアノの試験」で、先生が私の課題としたのは『バッハのフランス組曲第3番』の「メヌエット」でした。この曲は、右手はオクターブで細かく動き、左手はオクターブで大きく動く難曲でした。オクターブとは、例えば低いドと高いドの8音の幅の事で、手をいっぱいに広げて鍵盤を弾く事となります。

 

・曲は「メヌエット1」と「メヌエット2」で構成されています。「メヌエット1」→「メヌエット2」→「メヌエット1」と演奏します。「メヌエット2」は「メヌエット1」と対照的に、密な三声メロディーです。

 

・バッハは、聞く分にはとても面白いのですが、演奏となると手をいっぱいに拡げたオクターブの連続や 私のレベルでは常識外れの指使いもあり、難曲そのものでした。そこで、私は毎日「ピアノ室」に通い、猛練習をし、試験本番では、1~2箇所間違えましたが、最後まで弾き通せたので、何とかパスする事ができました。

 

グレン・グールドとの出会い

・教室の隣に「学生の休憩部屋」があり、レコードプレーヤーと数枚のレコードが置いてありました。その中の1枚に私の弾いた『バッハのフランス組曲』がありました。ピアニストは、カナダ出身のグレン・グールドでした。私はその演奏を聞いて「こんなバッハ演奏があったんだ」と、びっくりして、ぶっ飛びました。

 

・ヨーロッパのレコード屋によっては、グレン・グールドのレコードををクラッシクのコーナーではなく、ジャズのコーナーに置いているそうです。それは、グレン・グールドのバッハ解釈が、従来と桁外れに違い過ぎる為、ヨーロッパのバッハ・ファンがクラッシクと認められないという意思表示かと、思われます。


・しかし、ロックから音楽に入った私には、グレン・グールドのバッハは、とても新鮮に聞こえました。従来バッハの演奏は、極端に言うとテンポは固定で「テンポを揺らして演奏するなどもっての外」でした。しかし、子供の時からバッハを演奏し、たぶんクラッシク以外の音楽も聴いていたグレン・グールドは、自分の音楽魂のおもむくままに演奏した結果、まるで現代音楽のようなバッハが生み出されただけなのかもしれません。

 

グレン・グールドのレコードでは、ピアノの音以外に「うなり声」が小さく聞こえます。これはグレン・グールドが、バッハの演奏に陶酔してもらす「うなり声」です。(録音エンジニアは、この声を最小に抑える為に、大変苦労したそうです。)グレン・グールドのバッハ演奏にハマった私は、後に「グレン・グールドのバッハ全集」を購入する程、愛聴する事となるのでした。

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グレン・グールド。何故、彼のバッハは心の奥深い部分に響くのでしょうか?


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フランス組曲第2番のアルマンド(2分37秒)
グレン・グールドのバッハ演奏の中で一番好きな曲です。何故か「諦念」という言葉が浮かびます。
・作曲:J.S.バッハ 演奏:グレン・グールド

 


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フランス組曲第3番のメヌエット(3分31秒)
・右手と左手が独立して動きつつ、協調しながら響き合う、バッハならではの名曲(難曲)です。
・作曲:J.S.バッハ

◆いつも音楽といっしょ<夢(ドビュッシー)>(m086)

■音楽専修に進路変更(大学生編 2 of 5)

 

♪「音楽専修」に変更⇒「卒業するのに五年かかる」が条件

・私が進学した教育学部小学校教員養成課程は、専修制度がありました。「国語専修」「社会専修」「音楽専修」などがあり、選んだ専修の中学校教員養成課程の専門性の高い授業も、受講できる様になります。

 

・私は、年度の途中から「音楽専修」に変更を願い出ました。専修の変更は許可されましたが「卒業するには大学五年までかかる」が条件となりました。

 

♪中学校教員養成課程の学生の実力にビックリ!

・さっそく「ヤルゾー!」という意気込みで、中学校教員養成課程の「ピアノ」「歌」「作曲」等の授業を、受講させてもらいました。中学校教員養成課程の方々は、大学受験の際に「ピアノ」「歌」の実技試験に合格していますので「バッハ」「ベートーヴェン」、果ては「ドビュッシー」まで「ポロ、ポロ」と弾いてしまう方々でした。

 

・中学校教員養成課程の女の子に、目の前で、あの有名「月の光」が入っている、ドビュッシーの「ベルガマスク組曲」を弾いてもらった時には、度肝を抜かれたような驚きと感動で、目がまわりそうでした。

 

♪二十歳からのピアノ⇒「指が動かない」「左手、右手が同時に動かない」…

・大学には「ピアノ室」が15部屋程あり、誰でも自由に練習する事ができました。私は、ほぼ毎日通ってバイエル(一番最初の教則本)の第一番の曲から、練習を始めました。

 

・ピアノの授業は経験豊富な女の先生で、音楽専修の学生に対してはレベルに合わせて指導をしてくださり、とても助かりました。しかし、当たり前の事ですが、二十歳からピアノを始めた私の前には「指が動かない」「左手、右手が同時に動かない」等の、困難が立ちはだかりました。

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ドビュッシーは、ラヴェル、サティらと共に印象主義音楽を完成させた大巨匠です。


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・夢(4分49秒)
羽田健太郎さんの夢心地にしてくれるピアノ演奏です。
・作曲:ドビュッシー 演奏:羽田健太郎

◆いつも音楽といっしょ<加茂の流れに>(m085)

■琉大フォーク同好会(RFC)(大学生編 1 of 5)

 

♪受験疲れ(?)⇒「しばらく音楽活動はやめておこう」

・どうにか大学に入った私。受験疲れ(?)もあり「しばらく音楽活動はやめておこう」と思っておりました。春の終わり、大学の寮のベットでギターを弾いておりますと鹿児島出身のF君が「お前ギター弾けるのか、ならいっしょにバンドやろう」とスカウト(?)されて入ったのが、琉大フォーク同好会(RFC)でした。

 

・F君のバックみたいな位置付けで「かぐや姫」「NSP」などをコピーして、部内コンサートで歌い始めました。五大学フォークコンサートや大学祭は、裏方がメインでしたが1~2曲歌わせてもらいました。また、フォーク好きのマスターにいる喫茶店の小さなステージでも、歌わせていただきました。

 

♪琉大フォーク同好会での衝撃

・琉大フォーク同好会での衝撃の一つは、先輩の歌と演奏のレベルの高さでした。歌声もハモリもバッチリで、初めてワンランク上のフォークを聞く思いがしました。また、長髪やサングラス、ベルボトムジーンズもカッコ良く、私は憧れてしまいました。

 

・私達の演奏に対して、先輩からは「チューニングが合っていない」「ハモッていない」等のたくさんのダメ出しを頂き、半べそ状態でした。しかし、それは先輩達の音楽に取り組む姿勢の現れであり「相当な練習量をこなさないと、素晴らしい演奏はできないぞ!」と、教えていただいたと思っております。

 

♪青春の風を体中で受け止めるような、厳しくも、楽しい日々

・コンサートが終われば、必ず打ち上げの「飲み会」がありました。その「飲み会」は無礼講でストリップまがい(男です)も飛び出し、同期の仲間や先輩の本音が聞ける場でもありました。「飲み会」の二次会では「音楽論」「人生論」「恋愛論」、果ては「告白タイム」もあり、終わりのない「飲み会」が、朝まで続きました。

 

・琉大フォーク同好会の部室は、首里城守礼門のそばの手作りの小さな建物で、メンバーは部室に集まっては、コピー曲、オリジナル曲と、練習を重ねる日々でした。私にとって、琉大フォーク同好会での音楽活動は、音楽を通して青春の風を体中で受け止めるような、厳しくも、楽しい毎日でありました。

 

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・「加茂の流れに」「二十二才の別れ」は、かくや姫入門曲だと思います。


加茂の流れに.

・加茂の流れに(3分39秒)
・古都京都を舞台に、切ない恋の思いを、かくや姫は見事に歌っています。
・作詞・作曲:南こうせつ 演奏:かくや姫

◆いつも音楽といっしょ<私の孤独>(m084)

■「人生の寂しさ」を歌に乗せて(高校生編 4 of 4)

 

ビートルズのポールと「人生の寂しさ」

ビートルズのポールの作った歌には「Lonly People(寂しい人々)」「Lonly Heart(寂しい心)」という言葉が、よく使われています。稀にみる音楽の才能に恵まれ、一生かかっても使いきれないような大金を稼いだポール。

 

・物的世界で、人も羨むような成功を収めたポールですが、精神世界では度々の「人生の寂しさ」に、深く沈む時があったのかと思われます。最愛の妻リンダの死、凶弾に倒れたジョン、ジョージとの別れなど、その度に「人生の寂しさ」が、胸を引き裂いていたのかもしれません。

 

♪イジメと「人生の理不尽さ」⇒人間嫌い、人間不信

・私は物心ついた頃から、度々イジメにあっていました。イジメた相手に飛びかかって、殴るような性格でない私は、内面に沈み込みました。そして「人生の理不尽さ」を噛みしめるとともに人間嫌い、人間不信の側面を持つ青年になってゆきました。

 

・音楽は、イジメに対する怒りのはけ口となりました。高校時代に作った曲の三分の一は、人生を呪うような暗ーい歌でした。しかし、こういう歌は、はけ口にはなりましたが、人前で歌いたくなるような歌ではありません。事実、高校の文化祭では、一曲も取り上げませんでした。

 

♪ジョルジュ・ムスタキの「私の孤独」⇒「人生の寂しさ」への答えと諦め

・「人生の寂しさ」は、すきま風の様に誰でも感じるものではないかと、思います。しかし、対応は人それぞれなのだとも、思います。ポールが「Lonly People」「Lonly Heart」と歌う事も、そんな対応の一つかと思い、そこにポールの人間臭さと親しみを感じる私です。

 

・高校時代に、フランスの歌い手ジョルジュ・ムスタキの「私の孤独」という歌と出会いました。この歌のサビ「もう一人じゃないさ 孤独と二人だから」は「人生の寂しさ」への答え・諦めを適確に表していると、高校生の私は、大感激し、涙を流しながら聞きました。

 

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・ムスタキの風貌と歌は「人生の達観者」を思わせました。


65_私の孤独(ジョルジュ・ムスタキのカバー曲)

・私の孤独(4分34秒)
・フランスの吟遊詩人ジョルジュ・ムスタキのカバーです。この歳で歌うと、若い頃より、歌心が心に沁みるようです。
・作詞・作曲:ジョルジュ・ムスタキ